感情の機関。

整理整頓が苦手、でも、好きなものが好きな所にあるのは好き。
どうもこんばんは、須藤飛鳥です。


さっきね、すげー面白いドラマがあって見てたんですよ。
んで思ったんですけど、
法律?ってなんかもっとこうなんか、いい形なかったんですかねー。
今のが嫌だとかそういうことがいいたいんじゃなくて、もっとこうしたほうがいいとかそういう話がしたいんじゃないんです。
ただ、漠然と、僕にとっては嵌まらないというか、納得しないなーって思ったんだよ。ってはなし。
そもそもちゃんと勉強したわけでもないからくわしくもないしね。ただ、そう感じたなって話。

ドラマでは検察?と弁護士?とかでててそれをめぐるはなしだったんだけど、
なんかドラマは大抵そこに権力とか付き合いとか実力とかなんかそういうのがまざるわけじゃない。
実際の裁判とかがどうなのかはしらないけど、被害者にしろ、加害者にせよ、それどうでもよくない?加害者はどうでもよくないのかもしれないけど。

なんさ、そういう余分なものいらんよ。ってどうしてもおもっちゃうのさ。

裁判とかするときさ、徹底的に調べるわけじゃない事件を。それはそのまま人を調べるってことになるわけでしょ?
それでこの人にはこれくらいが妥当だ、いやもっとだ、いや重すぎるとか決めるわけじゃない。
それなんか気持ち悪い。
そこに人の感情はいらないと、僕は思う。

裁判だから、まー事件があってってなって、まー罪を図るんだと思うんだけど、
罪には罰。それでええやん。シンプル。
そこにその人の動機とか、贖罪とか、いらない。
それの吐き出す場所はそこじゃないよ。


例えば、ルールとして、この罪を犯したらこの罰。って全てにおいて決まっていたほうが、僕にとっては少なくとも健全。

それが、さらに例えば、やりたくないけどやらされたとか、巻き込まれてしまった、とかで望まない形で受ける事になったとしても、僕にとっては、感情としてはスッキリする。自分が当事者だとしても。それひよって発生した感情も、ぶつけるべき相手が決まってるから。自分にとっては。それによって、さらには自分がまた被害にあっても、それはそれ、だってそうなるとわかっててでもやりたいことなのだから。そして、相手もそれに応じた罰がくだるのだから。
平等じゃん。完全に平等じゃなくても自分の気持ちのやり場はあるじゃん。

逆に、今のまま時間をかけて、色々やって、相手にも色々あって、自分にも色々あって、色々考えて、結果、これが妥当です。はい納得してっていわれて。
それによってうまれたその何かをどうすることもできずに、ずっと抱えて、気にして過ごすほうがよっぽどやだ、辛い。
僕はね。


因果応報、やられたらやりかえす。全然ええもおもう。
それが怖くてできないのももちろん。それが自分で決めたことなのだから。
どっちに転ぼうが、自分のなかにあってしまった感情に、行き場があるじゃない。
それが、明確に、完璧に明確かどうかまではわからないけど、すくなくてもわかりやすいほうが、受け入れやすいなーと思いました。



難しいんだろうけどね、なんか色々折り合いつけて、うまくやってくのが、楽しく生きてくこつなんだろうけど、こうやって思うのもべつにええやん、と思ったんですよ。
そうしないと、いつかそういうときに出会ったとき、抱えたまんまになりそうだなーと思ったから。


僕は、感情の行き場、矛先?元?わかんないけど、それがはっきりしててほしいんだなーって。
仮に、それが心臓にあったとして、そのなかで様々な成分がぐちゃぐちゃになりながら存在してるよりは、一個一個ちゃんと部屋がきまってて、出したいときに、出したいものを出せる、そんな状態でありたいんだなーーと思った。

ってのを思ったんだなーって。
滅茶苦茶自分勝手やん。


それは本編とは関係ないんでいいんですけども。



とにかくそんな事を考えた夜でした!!!



整理整頓、できるようにします!!!!



須藤飛鳥