赤い糸は見えない。

運命の赤い糸なるものがあったとしても、認識できたらなんか違う感じするよね。なんかロマンがない。
どうも、こんばんは。須藤飛鳥です。

今日も今日とて稽古でございましたよ。今年はたくさんのお芝居に出させてもらって、あーなんか役者なんだなぁって感じの一年でした。こまかい事はおいといてね。

自分の公演もやったりとかして、本当、人にめぐまれたなぁーってかんじです。


今回のお芝居をしてると、頻繁に思うのだけど。
いろーーーーーーーーんな関係性があるよね。人って。
人じゃなくてもか。
今やってる土木座ってお芝居は土木座っていう土木作業員の格好をした謎の団体に、三姉妹が巻き込まれていくって話なんだけど、関係性みたいな、居場所みたいなもんにすげー関わってくお話なんですよ。

僕らは基本、誰かと関わって生きてくわけじゃないですか。
うわなんだこれ、なんか大袈裟な言い方っぽくてやだな。
でもまぁそんな感じなわけでさ、そこに好き嫌いとか、付き合いとか、土地とかいろーーーーーーーーんなもんが混ざって関係性ができあがってくわけでしょ。





なんか、いいなぁって思ったんだよね。
羨ましいのほうの、いいなぁ。

別に今の僕の気づいた関係性に不満がある、って訳ではなくて、僕の周りに見える、他の人たちの関係性がなんか、凄くいいなぁって単純に思ったの。
阿吽の呼吸とか、以心伝心とか、そんなんじゃないかもだけど、わかり合えたりとか、それって、その瞬間は一瞬だけど、そこにたどり着くにはすげー時間かかるわけじゃん。
良いにきまってるよね。そんなの。

僕は色んなものに名前がついてるほうが好きで。
だから、恋人、友人、家族、師弟とかそういうの、名前をつけて関係を気づきたくなるんですよ。それに当てはめると、その特別になる気がするから。
でも、そんなことしなくても信頼とか、愛?知らんけど、そういう関係性は気づけるわけで、そんな名前っていう記号がないほうが、より強く関係性を築ける、気づけるときもあるわけで。
なんか、ぜーーーんぶ含めていいなぁって思ったんだよなぁ。

気持ちとかそういうのってそれ自体は目に見えないけどさ、その人を通して見えるじゃない。
あるわけじゃない。となるとさ、ほしいよね。どんなもんでも。



誰とも築かないで生きてくことも難しくないようになってきたと思うんだよ。
それでも、やっぱり誰かと何かを築くのって、やっぱりそれが必要だから、大切なものだからっておもうんだよねー。
無くなったとき、すんげーーー凹むけどさ。やっぱり大事だからじゃん。
なくなるわけないよね。


赤い糸は見えたらロマンないっていったけど、でも、どんな関係にも糸があって、大きさとか太さもバラバラで、それが見えたとしたら、
世の中糸と人だらけで、全然前に進めなくて、ほどけなくて、それはそれでなんかいいかもなって思った。
緩やかに糸に依存して、ちぎれないように気を使って、窮屈に感じることを、温かいって呼ぶのかもね。
あすを。


いつか見えるようになったとき、たくさんの糸が自分に絡まってる事を信じて。

今はただ、ゆっくりと、背中をくうに投げるのだ。





須藤飛鳥